Japanese Pavilion in São Paulo

サンパウロ日本館

1954年の1月から1年間、ブラジルのサンパウロ市で、サンパウロ市制400年記念の万国博覧会が開かれた。会場計画の中心人物は、すでにモダニズムの鬼才として、世界に名を知られていたブラジル建築界のエース、オスカー・ニーマイヤー(1907-2012)であり、彼の力強い造型が、180万 m2 のイビラブエラ公園全体で、華々しく展開した。

一方、日本館を任されたのは、和風建築の巨匠、堀口捨巳(1895~1984)であった。片やコンクリートの彫刻家、片や繊細な木造。これほど極端に対照的な組み合わせは考えられない。そして、できあがった日本館も、いかにも堀口らしい繊細な木造建築であった。堀口の設計した建築群の中でも、最も繊細なものと呼んでいい。桂離宮にヒントを得たと思われる、細い木の柱で建築を支える手法は、すばらしい完成度に達し、インテリアでも細い材料が繊細な音楽を奏でている。自由でマッシブな形態、強烈な色彩のニーマイヤーのコンクリート建築とは、すべての点で対極的であった。意図的であるとしか思えない対比が、そこには存在している。

当然堀口はニューマイヤーの会場計画を見せられていた。ニューマイヤーがどういう人物、どのような作風であるかも知っていた。堀口は何を考えながら、どのようにして、この日本館のデザインにたどりついたのだろうか。なぜここまで対極に振らなければならなかったのだろうか。

まず考えなければならないのは、日本のモダニズム建築とは、そもそも何だったのかという問題である。日本のモダニズム建築は、カタストロフと、深い関係をとり結んでいる。関東大震災と、第二次大戦という2つの悲劇(カタストロフ)による都市の消失を経て、日本はそれまでの「木の都市」を捨てて、「コンクリートの都市」を獲得した。それを、国家目標と決め、コンクリート化は日本の建設産業をうるおし、戦後日本の発展の経済的なベースとなった。20世紀初頭の西欧に登場した、コンクリートと鉄でできた機能主義建築、すなわちモダニズム建築が、コンクリート化した日本の都市の「制服」となった。コンクリート化という国家目標を達成することに、官民一体となって走ったのが、20世紀の日本建築史であったわけである。

その大きな流れの中で、堀口という建築家は奇妙なポジションにいた。一言でいえば、堀口は早すぎたのである。あまりに早熟だったのである。彼は1920年、東京大学建築学科在学時に、分離派建築会というグループを同級生6名で立ち上げ、7月には白木屋デパートで、「第一回日本分離派建築会展覧会」を開催し、岩波書店からも「分離派建築会宣言と作品」を出版。

1920年という日付にこそ注目すべきである。関東大震災は1923年9月であった。分離派建築会は、19世紀末に発するウィーン分離派にちなんだ命名で、日本で初のモダニズム建築の運動であった。東大の学生が、突然にして、日本の建築会の渦の中心となり、若きスーパースターが誕生したのである。もちろん、日本のモダニズム建築ととれる前川國男(1905-1986)よりも、丹下健三(1913-2005)よりも、ずっとずっと早いスタートであった

そして最も注意すべきことは、堀口が関東大震災よりも早かったという事実である。関東大震災というカタストロフの後、日本の建築界は、木造の否定、都市のコンクリート化へと一直線に走った。最先端デザインであった西欧のモダニズム建築の導入と、大震災の教訓としての反木造とが、ぴったりと併走して、20世紀の日本建築のメインストリームとなった。モダニズムと大震災の同時性という時間的偶然が、その後の日本建築の流れを決めた。建築の流れを決定しただけではなく、日本社会の方向性をセットした。大震災があったからこそ、こんなにも早く、都市のコンクリート化が実現し、土建国家の方向に、国が一気に走り始めたのである。丹下、前川は、その潮流のトップランナーとなって、新しい時代を走り抜けたのである。

一方、堀口は、関東大震災のという笛の鳴る直前に、フライングしてしまったのである。単に分離派宣言(1920)を出しただけではなく、その宣言の延長線上に紫烟荘(1926)という不思議な木造住宅を設計し、発表してしまったのである。紫烟荘は、関東大震災後にメインストリームとなるコンクリートのモダニズムとは、明らかに異質であった。まずコンクリート造ではなく、木造であったし、フラットルーフではなく、茅葺の勾配屋根がのっていた。田園風のとてつもなく「しぶい」ものだった。

1910年代から20年代にかけて、ヨーロッパ建築界をにぎわしたアムステルダム派のデザインから堀口が影響を受けたことは明らかであった。アムステルダム派は大きな意味ではモダニズム建築の一派とくくることができるが、1930年代以降にモダニズムの主流となる、コンクリートボックスのデザインとは、対極であった。コルビュジエやミース・ファンデルローエがリードしたコンクリートボックスのモダニズムは、大量生産、大量消費を基本コンセプトとする工業化社会のニーズに答える優等生的デザインであったが、アムステルダムは、むしろ工業化社会の合理性を批判しているかのように見える。堀口がフライングだとしたら、アムステルダム派もフライングかもしれない。あるいはあえて、水のない地面の上に飛び込んだのかもしれない。

堀口は早熟であり、繊細であり、プライドも高かったのであろう。そのためにフライングし、さらにそのまま宙吊りになってしまったのである。そして堀口という建築家の一番のすごさは、それではコンクリートへと転向しなかったことである。彼はフライングで選んでしまった木造と添い遂げた。そのために、日本の伝統建築を、その後徹底的に学習した。伝統という助けを借りなければ、木造という一種の「過去の遺物」をもってコンクリートという時代の大潮流に立ち向かうことはとうてい無理であると、堀口は察知したのである。その意味で堀口の人生は悲劇であり、喜劇であったかもしれないが、充分に賢明でもあった。

その宙吊りの堀口が、よりによってコンクリートモダニズムのトップランナーであるオスカー・ニーマイヤーのデザインする博覧会の中に日本館を設計することになるとは、なんという時代のめぐりあわせだろうか。そして、これ以上の悲劇/喜劇がありえるだろうか。

堀口が、サンパウロの地で、いかに悩んだかは想像に難くない。この逆説的状況にどう対処すべきか。仕事を受けるべきか受けざるべきか。堀口はこう記している。「私はニーマイヤーのあの烈しい表現を伴った傍らに、自分の設計を試みる勇気を全く欠いていた。(中略)それから半月ほど私は柄にないこの仕事を如何にして断るべきかを考え続けた。」

しかし結局、堀口はサンパウロの仕事を受けた。しかも、『時代遅れ』の木造をもって、ドン・キホーテのごとき構えで、ニーマイヤーにいどんだ。サンパウロの日本館を一言でいえば、20世紀のドン・キホーテということになるだろう。それは喜劇である以上に英雄的であり、それゆえに人を打つ。

ドン・キホーテは、いかにしてコンクリートに闘いを挑んだか。20世紀のドン・キホーテはしばしば、庭を武器とすることを選んだ。和風の庭と抽象的なモダニズムの庭とを、レベル差を用いてセパレートするという巧みな操作によって、堀口は知られる。彼は繊細な木の建築を、庭という囲いを用いてまもったのである。堀口の代表作と呼ばれる岡田邸(1933)は、隔離された和の上に建つ木造と、抽象化された洋の庭の上にたつモダニズム建築を見事に共存させたのである。木造というドン・キホーテをモダニズムと対等に闘わせるためには、庭という強力な助けが必要であると、堀地は直観していたのである。

サンパウロも、堀口は徹底して庭にこだわった。庭の助けを借りて、ドン・キホーテをコンクリートの暴力からまもろうとしたのである。日本館の敷地が、巨大なユーカリの樹々によって、ニーマイヤーの建築群から隔離されていることを知って、まず堀口は安堵した。ユーカリの庭でニーマイヤーの暴力から隔離し、それだけでは足りずに、水の庭によって、さらに隔離を徹底させた。サンパウロの日本館のデザインの中心は、水の庭である。サンパウロ日本館は桂離宮のコピーだといわれてきたが、僕はその説に従わない。空中に浮いたピロティ状のプロポーションは確かに桂離宮の新御殿に似ているが、新御殿は水には浮いていない。堀口の岡田邸で、和庭と洋庭は水で隔離されている。彼にとっては、水が決定的に重要だったのである。建築のプロポーションは二次的な問題であった。それゆえサンパウロの建築には、建築に対する一種のニヒリズムさえ感じられるのである。水がメインであって、建築は脇役であるとうそぶいているような、ニヒリズムが感じられる。博覧会建築という、一種の祭りのためのイベント建築であることが、ニヒリズム感を一層高めている。

堀口は、幸か不幸かニーマイヤーという圧倒的な強敵と遭遇したことによって、庭による隔離を徹底し、建築に対するニヒリズムがめばえ、ドン・キホーテは行くところまで行った。堀口という方法は、サンパウロという場所と出会うことで新しい境地へと到達した。

そこに僕は偶然以上のものを感じる。ニーマイヤーという方法が、そもそもブラジルという場所、ブラジルという遠い場所を必要とした。ヨーロッパの中にいたら、これほどの自由な造型は不可能だったろう。そしてブラジルという遠く自由な場所だからこそ、木造とコンクリートは、こんな乱暴な形で出会うことになったのである。その出会いの緊張感が、サンパウロ日本館という、きわめてユニークな木造建築を創造したのである。

この堀口の水面が、今は白い防水プラスチックシート敷きの、みたこともない不思議な池と化している。まったく日本的でもなく、庭とさえ呼びたくもない。しかし、池が隔離のために用いられたとするならば、これ以上の切断はないかもしれない。この池は今や和庭でもなく、洋庭でもなく、宙づりにされている。この不気味なほどに白い池こそが、堀口というフライングしたドン・キホーテにはもっともふさわしいように、今となっては思えるのである