「村野藤吾と丹下健三と僕が作る三角関係」
2月11日、パリ日本文化会館で、「村野藤吾の建築を巡って」というタイトルのシンポジウムが開催され、基調講演を行った。昨年2024年の4月30日から、同じくパリ日本文化会館で丹下健三と隈研吾 東京オリンピックの建築家」という展覧会が開催された。その時の基調講演では、二回の東京オリンピックの開かれた1964年と2021年の対比を軸にして、高度経済成長の申し子のコンクリートの丹下 対 低成長少子高齢化と木材の隈を一種の対極として論じてみた。
その同じ場所で、今度は村野を論じて欲しいという要請だったので、昨年の議論を発展させ、ある意味、丹下の最大のライバルであった村野藤吾を、もう一つの極に置き、丹下・村野・隈という三角形構造を仮定して、その三極の背景にある時代と文化について、考えを深めてみた。
最初に思い出したのは、Newsletter#66でも触れた、僕の学生時代の広島ピースセンター(1955)探訪であった。日本の戦後モダニズムの原点である。丹下の傑作をどうしてもこの目で確認しなければと、この旅を思いたち、友人と連れだってピースセンターを訪れた。建物はもちろん美しいプロポーションで空中に浮遊していたが、それ以上に、そこに展示されていた原爆の悲惨さに、予想もしていないほどに徹底的に打ちのめされてしまった。正直いってモダニズムも建築も、どうでもいいものに感じられ、なんの言葉も出ず、茫然としていた。
少し落ち着いてから、しばらく歩き、村野藤吾設計の世界平和記念聖堂(1954)を訪れた。ピースセンターの展示も一生忘れられないが、村野の聖堂を見た時の感動もまた、一生忘れられないものになった。それは、ピースセンターで打ちのめされ、ほぼ放心状態のままやっとのことでたどり着いた自分の心と体を、文字通りいやしてくれたのである。外壁のレンガの粗々しく素朴なテクスチャーにはじまり、すべてのディテール、それらを照らす光のすべてが、ショック状態から僕を救い出してくれたのである。
モダニズムからの原理からいえば、その聖堂の素材の雄弁や装飾的細部は「不純」であるかもしれない。しかしその「不純」の中にこそ、人間を救い出す力がひそんでいるのではないか。丹下の「純粋」な物質やミニマルなディテールとは対照的なものとも見えるこの「不純」の中にこそ、建築というものの本質があるのではないか。建築の力が潜んでいるのではないか。そんな実感がこみあげ、血の気を失った体の中を、再び血液がまわり始めたような感覚を味わったのである。
それ以前、僕は村野に殆ど関心を抱いていなかった。丹下とその弟子である槙、磯崎、黒川の繰り広げるロジック、建築思想を追いかけ、それに振り回される学生生活であった。
いわば僕は言葉というものの中でのみ、建築を考えていたのである。言葉というものに囚われて、生きてきたのである。そんな言葉の世界からながめれば、建築雑誌の写真でみる村野は「不純」で、論理不在の老人にしか感じられなかったのである。
しかし、広島での忘れられない日から、村野は僕にとっての新しい燈となった。実物の村野建築を実際に訪れ、彼の「物質」として「光」に直接触れ、そこから何かを感じること、学ぶことが、その後の僕の生活の、大きな部分を占めることになったのである。
訪れた村野の建築は、小さな料亭や茶室など、どれも和風建築という枠にくくられてしまうものばかりであり、モダニズム建築の外側の、特殊な趣味的領域と見なされていた。この和風という枠もまた、村野を誤解させていると僕は感じた。いわゆる公共建築の発注者達からみると、村野ただの不純な商業建築家であり、国や地域を代表するべき存在である公共建築は、ロジカルで倫理的なモダニズムの建築家の領域であるべきだと考えられていた。そのような社会的な棲み分けの中で、村野は和風建築に追いかけられていたともいえるし、和風建築を一種のアジールとして、そこに逃げ込むことで、自由に創作と研究を楽しめたという見方も可能である。
モダニズムの建築家達は、逆の見方をすれば、村野は和風建築という領域を、時代おくれの因習的で閉じた世界であるとして見下したが、村野は和風建築を、モダニズムのドグマの制約を受けない、一種の自由なラボ、ワークショップの場として再定義したのである。
そして、そのラボは村野の単独の発明ではないと、僕は感じた。昔の日本の木造の大工達は、そのようにして木造建築で遊び、技をたたかわせ、鍛え上げ、伝承していったのである。特に茶道のための空間であった数寄屋建築においては、そのようなラボ性が突出していた。村野は、伝統の中にラボを発見し、それを現代的な形で再生させたのである。
僕は村野建築を見て歩きながら、そこでラボ的方法論を次第に身に着けることができたのである。そこはコンクリートと鉄に拘束されたモダニズムとは対照的な物質の自由があり、クライアントと建築家と職人とが、物質とディテールを駆使しながら遊び、そして激しく競い戦っていた。その結果を生まれたものが、世界の他の場所にはないような自由でヒューマンな建築文化だったのである。
その意味で、僕は丹下から論理と言葉をもらい、村野から物質と自由を学んだ。パリという、東京から京都からも広島からも距離を置いた場所で考えるチャンスをもらったので、丹下、村野と僕という三角形に気がついたのかもしれない。
そしてかつてはまったく海外で注目されなかった村野という建築家が、パリで注目され始めたということがおもしろい。それは、写真や図像の流通で作られる近代の文化が飽和し、限界を迎えたことの結果であると僕は考える。そんなポスト図像の時代だからこそ、実物でしか伝えることのできなかった村野の建築へ、人々が注目し始めたのである。実物の時代とは、イメージの時代の終焉であると同時に、言葉による論理的思考の終焉をも意味する。言葉とイメージの結合がモダニズムを生み、言葉とイメージの飽和と終焉が、村野を僕らのもとに呼び戻すのである。村野は新しい時代の象徴なのである。

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