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最新号ニュースレター
#69 June 19, 2025
ルイス・カーンと僕
少し時間がとれたので、アメリカの東海岸の3都市をまわって講演をした。ハーヴァードは、コロナが間に入ったので2019年以来になるが、日本人の学生の数はさらに減っていて、少し寂しかった。ここでは環境問題と自然素材を軸にして、僕の最新作について語った。
ニューヨークのコロンビア大学では、トランプ問題で、大学全体がロックアウトされているので、急遽場所をミッドタウンのアジアソサエティーに代えて行ったが、同じ話を繰り返したくないというのが、僕のレクチャーの方針なので、テーマを変え、コンピューテーショナルデザインが可能にする、粒子のゆるい集合体という話をした。すなわち粒子のオルガニックデザインという話である。コロンビアは、僕が在籍していた1980年代の後半から、パラメトリックデザインを教育の中心に据えているので、それに合わせた切り口で、僕の最近の建築を分析してみた。
3日目は、フィラデルフィアのペン・ミュージアムが会場で、僕が今年のルイス・カーン・アワードを頂いたのに合わせた、受賞記念講演会であった。
ルイス・カーン(1901-1974)は、フランク・ロイド・ライトと並んで、僕が最も評価し、敬愛するアメリカの建築家であり、彼の名前のついた賞を頂けたのは、いままでの受賞歴の中でも格別の思いがあった。
ライトとカーンに共通しているのは、彼らが20世紀のアメリカの建築家でありながら、20世紀のアメリカ文明に対する、最も厳しく辛辣な批判を行ったことである。コンクリートと鉄という工業製品を武器にして、ひたすらスケールとスピードを拡大・加速していったアメリカ文明に対する批判は、僕の建築的活動の原動力である。その姿勢を僕は二人のアメリカ人から教わった。さらに彼らが、アメリカ以外の場所──たとえば日本、バングラデシュ──で活動し、そのアメリカとは対極的な場所から学び、場所の力を借りながら、その表現の幅をひろげていったその生き方にも、僕は敬服し、自分の海外での活動の範とした。そういう個人的な思いも込めながら、カーンと僕の建築を比較して、セレモニーでレクチャーをした。
まず最初に見せたスライドは、僕が最も好きなカーンの作品であるフィッシャー邸(1967)で、その外壁の羽目板(プランク)のもつ、家庭的ともいえる親密さがカーンの建築のベースとなっていることから話を始めた。プランクは、僕の携わった東京の国立競技場でも、建築全体の主役として、すべての部分で同一寸法(105mm巾)で繰り返し用いられている。80,000人収容のスタジアムのような巨大建築でも、木造住宅の基本ユニットであるプランクが主役を務められることを示そうと思ったわけであり、その背後に、フィッシャー邸で得た感動があったことは間違いがない。
カーンのバングラデシュの国会議事堂(1982)も、僕にとって忘れられない作品である。近づいて観察すれば、すべての細部も表面も、当時のバングラデシュの建設のレベルそのままに粗く、不揃いだが、そのような細部を超えた力強さが、そこには存在した。むしろ粗雑にもかかわらず美しいのではなく、粗雑であるがゆえに、それは崇高であり、感動的であった。
日本の、高い建設のクオリティを実現できない海外で仕事をする時に、僕がいつもモデルとしていたのは、バングラデシュのカーンであり、その存在は僕を大きく励まし続けてくれた。それだけではなく、バングラデシュの議事堂は、粗さと崇高さを統合させようとする僕の建築的方法そのもののヒントともなったのである。
アメリカ文明のピークともいえる輝かしく豊かな時代に、バングラデシュやインドのような場所にあえておもむいて作品を残し、その作品を通じてアメリカ文明を批判したカーンの生き方からも、僕は多くを学んだのである。
そのような話をし終わった時、予想外に会場の全員が立ち上がって、大きなスタンディングオベーションが起こった。僕は驚き、そして涙が止まらなくなった。ルイス・カーン賞の授賞式でも、こんなことは初めてだといわれた。
カーンは、バングラデシュからの帰りに、ニューヨークのペン・ステーションで倒れて亡くなり、身元不明者として発見された。僕も、そのようにして、最後まで走り続けたいと、心に誓った。


News受賞・講演のお知らせ – 2025 Louis I. Kahn Award
