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最新号ニュースレター
#66 February 11, 2025
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)にノーベル平和賞が与えられた。ノルウェーの首都オスロで、12月の被団協の授与式と連動する形で行われる平和賞展のためのインスタレーションを、ノーベル平和センターから依頼された。被団協が被曝体験者への調査結果をまとめた資料集「『あの日』の証言」を読み集めるうちに、僕が学生時代に訪れた丹下健三設計の広島平和記念資料館の記憶がよみがえってきた。日本のモダニズムの建築を、この目で確かめたくて旅に出たのだが、平和記念資料館に展示されている『あの日』に出会った途端に、「日本のモダニズム」も「建築」も、僕にとっては、どうでもいいものになってしまった。それほどの衝撃を受けて、その後の僕が何の建築を見て、どんな旅をしたかも、何も覚えていない。
実は平和資料館も、平和記念資料館も、丹下の建築も、もうどうでもいいやというふうな状態になってしまったのだが、丹下がなぜ広島にこだわり続けたのかは、この展示を見て、はっきりと納得することができた。丹下がなぜ広島を忘れることができなかったのかも、納得できた。
拙著『日本の建築』の中で詳述した通り、丹下にとって広島は特別な場所であり、平和記念資料館は、丹下が戦争直後から自ら志願して力を注いだ、広島復興計画の産物でもあった。丹下としては珍しいほどに熱い口調で、広島への想いは語られている。「私は率先して広島担当を申し出た。(略)草さえも一本も生えぬであろうなどという口さされていたが、私はたとえわが身が朽ちるとも、というほどの思いで広島行きを志願した。楽しい高校生活を送った土地であると同時に、私が父母を同時に失ったその時に、大難を受けた土地である。なにか大いなる因縁というものを感ぜざるを得なかったのである。」(丹下健三『一本の鉛筆から』日本経済新聞社)
丹下がきっかけとなって建築を志し、丹下の背中をずっと見てきた僕にとって、丹下の原点である広島に関われることは、願ってもないことであった。ノーベル平和賞センターからの依頼は、一か月でデザインから資材調達のすべてを完成させてオスロの会場に組み立てるという、考えられないような短いスケジュールであったが、広島の杉を使ったオブジェクトを1000個会場に並べ、そのそれぞれのオブジェクトに、被爆者の千の証言をひも付けるというインスタレーションを、何とかオープンの前夜に完成することができた。
それを可能にしてくれたのは、学生時代からの友人の坂本龍一が設立し、今は僕が彼に代わって理事長を務めているNPO法人more treesであった。more treesは、日本に森を取り戻すことを目標に2007年に設立され、すでに10万本を超す木を植えている。広島の森にもmore treesの仲間がいて、このインスタレーションのための繊細な木組みを、短期間で1000個作ってくれる木工職人の仲間もいて、この「小さな森」のような空間が、たった一か月でできあがった。昨年亡くなった坂本龍一と、20年前に亡くなった丹下健三が、あちら側から僕らにハッパをかけてくれたので、広島の森をオスロに作ることができたのだと思う。


Projectsノーベル平和賞のためのインスタレーション
