『日本の建築』の出版と同じこの11月に、母が96才で亡くなった。もちろんのこと偶然だけれども、僕にとっては偶然以上の重みが感じられた。『日本の建築』の実のテーマが、日本という国の文化の中にひそむマチズムへの批判だったことと、父のマチズムから僕を守り続けてくれた母が逝ってしまったということの間に、なにか宿命的なものを感じたからである。
母と18才も年が離れていた明治生まれの父は、我が家においては圧倒的な独裁者であり、わからずやの家長であった。父は早くして10才で、両親を結核で亡くしてしまったので、自分の父親というものを知らずに育った。ということは、父子の確執というものも体験せずに、すなわちマチズムの被害を受けずに育ったわけで、結果として彼には父権への批判も抑制も働きようがなく、ストレートに、家の中でマチズムを発散して、はばからなかった。
その暴力的マチズムから母が懸命に僕ら兄妹を守ってくれた。建築に関わることでいえば、父の民芸趣味の押し付けに、僕は辟易としていた。民藝は、日本の「田舎」の発見であると同時に、専業主婦に押し付けられた家事労働という視点の欠如した、男の趣味の押し付けであると『日本の建築』で僕ははっきりと指摘した。しかし子供の頃の幼稚な僕は、そんな反論を思いつけるわけもなく、ただ暗くてジジ臭くて、いやな趣味だとヒネていた。
母はその暗くなりがちな家を様々な小物で明るくしてくれた。母はとびきりお洒落で、去年地元の横浜で講演した時に、会場からいただいた「お母様は、ファッション雑誌から抜け出たような素敵な方でした」という近所の方のコメントを、葬式で母にたむけた。しかも母は全く贅沢ではなく、家計をやりくりして、そのかわいい服や小物を買っていた。
趣味もファッションもお飾りではないし、生活の余剰品でもない。暴力に対抗するための武器となりうることを母は僕に教えてくれた。そのおかげで、僕は『日本の建築』を書くことができた。