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#84 May 27, 2026


ボーダン・トゥロックの音の建築

映画監督で作曲家で精神分析の専門家でもある、友人のボーダン・トゥロックと、僕の設計した白金の瑞聖寺庫裡で、"Architecture of Resonance"というサウンドイベントを行った。

彼は、建築自体を楽器とみなし、それをこすったり、たたいたりすることで、一種の環境音楽を作っている。その操作によって物質であったはずの建築が物質性を失い、音に変換されていくのである。それは、建築を形態としてではなく、音として再定義したいという、僕の積年の想いとも近く、しかも彼が見事に、僕の建築それぞれの個性を、特徴のある音楽に転換していく様子がおもしろかった。一度、彼の音楽を、親しい友人達と一緒に聴き、またその意味について、語り合ってみたいと考えて、瑞聖寺のイベントを企画したのである。

音楽と建築と心理学の領域を、自由に横断して、話は盛り上がっていったのだが、中でも彼が影響を受けたイギリスの精神分析家クリストファー・ボラスの「対象の影(The Shadow of the Object)」という概念を知ったことが、最大の収穫であった。

僕は90年代始めのバブルの崩壊の時から一貫して、アンチ・オブジェクトをテーマにかかげて環境に融けるような建築をめざしてきた。そして、その融ける建築において、影ということが重要であることも、繰り返し語ってきた。コルビュジエは光で建築を突出した物体に見せようとしたが、僕は逆に、影によって建築を消そうとしてきたわけである。そこには谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』で提起した、日本建築は影の建築であるというテーゼも、深く関係している。

ボラスの"The Shadow of the Object"という概念は、僕がこだわってきたオブジェクトと影という二つの概念の橋渡しのヒントとなり、さらに空間のインティマシーに対しても、大きなヒントを与えてくれた。ボラスは、人間がどのようにして空間に親しさを感じるかを分析して、そこには物(object)が、物体から、shadowへと融けていく変容プロセスが介在することを見出すのである。

ボラスが影響を受けたイギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットは、子供が「移行対象」(ぬいぐるみ等)を使って、母親離れを達成し、現実世界へと徐々に接続されるプロセスを見事に分析して、「移行対象」は精神分析の重要なツールとなったが、ボラスはそのロジックを拡大して、人間がある場所に親しみを感じ、自分の場所だと感じるに至る移行を、objectがshadowを獲得していくプロセスとして、普遍化したのである。

その影への移行という比喩を用いるならば、ぬいぐるみが表面に無数の凹凸があるように、建築を、影を内蔵した奥行のある、やわらかな存在としてデザインするのが、僕の手法だとまとめることができるだろう。「ぬいぐるみ化」によって粗々しい世界を、親しみのある空間へと変容させるというのが僕の建築作りの基本的手法なのである。ボラスなら、そんな形で、僕の建築を総括してくれるかもしれない。

会場にはボーダンの妻である、フィギュアスケートの世界的な振付師のシェイリン・ボーンさんも来られていて、僕はどうしてもシェイリンさんの振り付けの「日本性」に対しても、語り合ってみたかった。シェイリンさんは羽生結弦の振り付けで彼を世界チャンピオンにしたことでも知られ、羽生と彼女との息が詰まるようなレッスンの様子はNHKの「魂の振付師」が、詳細に記録している。

彼女がなぜ羽生を世界一にできたのか。そこにはボーダンの大きなサポートの存在があったと僕は感じていた。一世を風靡したロシア流の振り付けの基本は、回転というオブジェクトを、限定された時間内にいかにたくさん詰め込むかという、いわばオブジェクト指向であった。一方、シェイリンさんはオブジェクトとオブジェクトのつなぎの部分、余白の部分を大事にして、その部分の間の価値を、オブジェクト以上に重視した。その全体性のデザインを振り付けに持ち込んで、フィギュアスケートの世界を一新させたのである。

その背後には、回転重視のオブジェクト指向のロシア流の振り付けが、スケーターの体に過剰な負担をかけ、スケーターを若い時に燃え尽きさせてしまうことに対する批判も存在した。余白や流れに対しても、充分な評価点が与えられるという採点方式の変更が実施され、結果として全体性、空間性を重視する振り付けへと、フィギュアスケート全体の流れが変わり始めたのである。

その全体性の振り付けにおいて重要となるのは、スケーター本人の人間性と、振り付けとの共振関係である。シェイリンさんは、その共振のために、選曲を重視する。どのような音楽にのってパフォーマンスが行われるかが、全体の印象を支配するのである。その選曲にボーダンが深く関わっていた。ボーダンはスケーターとシェイリンさんの会食に立ちあって、そこで深層心理学と作曲家の経験を生かすことで、スケーターの深層ともっともフィットする音楽を探す手伝いをするそうである。

人が書いたり、しゃべったりすることは、その人間の表層でしかなく、深層を感じるためには、一緒に食事をするということがとても重要だと、僕はボーダンから教わった。シェイリンさんとボーダンは、そのようにしてスケーターの魂にわけいっていき、振り付けを通じてその魂と人々をつないでくれるのである。

精神分析でも、フィギュアスケートでも、そして建築でも、同じような流れが進行しているのを、僕は感じた。オブジェクトから空気へ、形から影へ、そして表層から魂へ。その大きな流れの中に、ボーダンの方法、シェイリンさんの方法、僕の方法が存在する。その中に、ある種の新しい親和性が生まれるのを感じて、とても安らかな気分になった。

Kengo Kuma © Onebeat Breakzenya

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