東京大学建築学科教授としての11年間を締めくくる最終講義を、やっと終えることができた。通常、最終講義は一回のレクチャーという形をとるが、一回のレクチャーだと、いろいろな場所で行っているレクチャーと大差ないものになってしまうので、僕は、「工業化社会の後にくるもの」という全体テーマのもとに、毎回多様なテーマを決めて、ゲストを招き、10回の討論を伴うという新しい形式にチャレンジした。
その最終回がコロナの影響で延期され、やっとオンラインで行うことができた。
最終回のテーマは「コンピューテーショナルデザインとクラフト」。コンピューテーショナルデザインが軽視されがちな日本の建築教育の現場を変えたいという思いで、この11年間、東大で様々な試みをし、新しいスペースを作ったり、新しい機材も導入してきたが、そういった試みを、自分なりに総括して、未来につなげたいという思った。ゲストに招いたのは建築史家で、コンピューテーショナルデザインの歴史的位置づけに関するユニークな研究を続けているロンドン大学バートレット校のマリオ・カルポ教授。
グニャグニャした有機的形態の生成は、コンピューテーショナルデザインの最初期の流行でしかなく、コンピューターデザインの本質は、前近代的なものづくりの方法が、新しい演算スピードにほって復活することだとカルポ教授は主張している。そして小さな粒子の集合体の加算的演算によって物をつくる僕の方法は、その新しいものづくりの先駆のひとつであると励ましてくれている(ref 「粒子化:新しい粒子の芸術と科学」
今回のトークでロンドンから参加したカルポ教授は、Covid-19の状況を受けてさらに一歩踏み込み、「コロナ禍で近代という時代、産業化という時代は完全に終わった」と言い切った。「コロナ禍の中で、インターネットとクラフトだけは、生き続け、大工場も大事務所も、すべて停止した。無数のオフィスビルが無用の長物であり、それがなくても、人間は生きていけるということが証明された」という力強い言葉をもらうことができた。
僕は東大と隈事務所で携わった、コンピューテーショナル関連の25年間のプロジェクトのレビューをしながら、2つのことに気付いた。
ひとつは、1990年代前半、僕のコロンビア大学時代の友人(グレッグ・リン、ライザー/梅本、ハニ・ラシッド)達が、カルポ教授が第一世代のコンピューテーショナルデザインと呼ぶ曲線形態(彼らはblobという言葉で呼んだ。カルポ教授はデジタルストリームラインと呼ぶ)のデザインで注目を集めた際に、僕が感じていた違和感が、その後の僕を突き動かしたということ。彼らをライバルと感じていたからこそ、彼らとは全く違う形で、コンピューターを使いたいという気持ちが僕の中に芽生えた。
もうひとつは、石の職人と手作りした石の美術館(1996-2000)と、学生達と作ったパビリオン群で試みた「草の根」的なセルフメイドが、カルポ教授のいうところの粒子的方法のきっかけを作ってくれたということである。
「石の美術館」は、低予算という条件から、ゼネコンを使わず、2人の石の職人の手作りで、ゆっくりと石の建築を作るという実験であった。パビリオンもまた、学生の手作りで、プロの建設会社に頼らずに小建築を作るという試行であった。そのような厳しい制約が、粒子的方法を生んだのである。「制約に感謝」である。
近代的システムにのらない、草の根的建築、民主主義的建築への眼を開かせてくれたのは、最終講義シリーズでも第3回に登場して頂いた内田祥哉先生である。祥哉先生はバックミンスター・フラーの例を語りながら、「民主的建築」のおもしろさを教えてくれた。しかし、内田研究室の研究は、基本的にはプレハブ住宅が中心で、それは、工業化の真っただ中という当時(1970年代)の日本という制約から考えれば当然である。
バブル経済もはじけ、少子高齢化につき進んでいた90年代以降の日本という状況があったからこそ、僕はこの粒子的方法に行きつくことができたわけである。そのような歴史的パースペクティブの下で、自分のやってきたことを見つめ直した最終講義だった。
今年からは、東京大学特別教授というポジションで、SEKISUI HOUSE – KUMA LABという新しいプラットフォームで、東大と関わり続けることになる。そこでも、この粒子的方法を、さらに展開していきたい。